悪性リンパ腫によって将来の希望が絶たれた16歳の女子高校生に、
桑山正成が開発した卵子凍結保存の技術という光が射した。
抗ガン剤投与、骨髄移植…、と耐え難い治療を支えてくれたこの小さな光が、
12年の歳月を経て大きな光となって、彼女の人生を照らし始めた―――

突然襲った病魔が何の罪のない女子高生の日常を奪う

なぎささんが体に異変を感じたのは、高校一年生の冬のこと。楽しい高校生活を送っていたときです。それまで人一倍元気だったなぎささんでしたが、そのとき、何となく調子が悪いなぁと感じていました。親元を離れ、祖父の家から通学していたので、冬休みで実家に帰省した際、肩がこって頭痛がひどいと母親にこぼすと肩をもんでくれたそのとき、肩にしこりのようなものを発見。皮膚にブツブツもあるし、気になって大きな病院に行くと、即日入院となりまました。病名は「悪性リンパ腫」ですでにステージ4。肺にも転移。あまりに突然のことに状況が飲み込めず、あんなに楽しかった学校へ行けなくなるのか…と、今思えば呑気なことを考えていたそうです。突然の信じ難い事態になぎささんはもちろん、両親も絶望的な気持ちになりましたが、悲しむ間もなく抗ガン剤治療が始まったのです。

小さな卵の存在が辛い治療に希望の光を与えてくれた

ところが、苦しかった抗ガン剤治療の効果は見られず、「自家抹消血幹細胞移植」という移植をすることになりました。それは将来不妊になる可能性を伴うと、主治医からあまりにも残酷すぎる宣告を受けます。病気が治ったら、やがて結婚して子どもを産みたいと思って闘病してきたなぎささんは、将来子どもを産めないとなると、何のために辛い抗ガン剤治療に耐えてきたのかわからない…、病気が治っても他の女性のように子どもを産めない人生なんだ…、と悲観します。

そこで主治医から提案されたのが「卵子凍結保存」。最初は正直なところ、卵を採取しておけば将来赤ちゃんが抱けるか半信半疑ななぎささんでしたが、母親の勧めもあり、東京の桑山先生のもとへ。
桑山先生は1999年、世界で初めて卵子凍結保存の実用化に成功し、2001年、勤務先の加藤レディスクリニック施設内に未婚のガン患者さんのための初の卵子バンクを開設していました。
2個の卵子を採取し、桑山先生が開発したガラス化保存という新しい手法で凍結保存してもらいました。驚いたことに、採取してもらった卵子2個の写真を見ていると、「将来赤ちゃんが抱けるかもしれない」という希望が湧いてきたのです。ガン治療を行って治った血液ガン患者のなかで、世界中で自分だけが、卵子保存のおかげでまだ将来に子を抱ける可能性を持てている…。抹消血幹細胞移植は、前処置に大量の抗ガン剤治療が必要なので、今までと比較にならない辛さはもう言葉では表現できないくらいのもの。そんな真っ暗なトンネルの中にいたなぎささんや家族に、ほんのわずかな光が差し込んできて、生きる希望を持つことができました。この卵子たちがいなかったら、辛い治療に耐えられなかったかもしれません。

ようやく戻れた普通のレールで幸せの絶頂を味わう

末梢血幹細胞移植は成功し、2カ月後には退院。体力は低下していたものの、日常生活を送ることはできました。そこで、「病気したのも何かの縁。自分の経験が少しでも役立てれば」と、看護師を目指すべく看護学校へ入学。実際に現場で働くと、看護師という仕事はなぎささんにとってとてもやりがいがあり、天職でした。「病気になったのは、看護師になるためだったのかもしれない」と思ったほどです。ただそれは、「寛解」と言われる5年を過ぎたからようやく思えたことで、闘病中は、どうして私だけがこんな辛い思いをしなければならないの?と、状況を受け入れられないこともありました。

看護師として働いて3年後、運命の人と出会い結婚。病気のことも、将来子どもを持てない可能性があることも理解してくれて、幸せでした。さらなる幸せを求めて妊娠を希望しますが、ホルモン値の結果、自然妊娠は難しいことを知ることになります。そこで働きながら東京に通い、12年前に凍結した卵子2個を解凍して、旦那さんの精子と顕微受精へ。解凍した2個の凍結卵子が2個とも受精し、培養後、さらに2個とも胚盤胞という受精卵になってくれました。うち1個を予備として再び凍結保存し、もう1つの受精卵が子宮に移植されました。結果、見事着床、出産を迎えることになりました。大きくなっていくお腹を見ながら、まさか自分が母親になれるとは思わなかったので、さらなる幸せをかみしめながら過ごしました。

赤ちゃんを抱けたことはいろいろな人たちとの奇跡の出会いのたまもの

そして29歳の夏、無事に3295gの元気な男の子を出産。ようやく我が子に会うことができ、「12年間、待っていてくれてありがとう」と、本当に感激しました。夫も家族も周りの人みんなが喜んでくれました。病気になったからこそ17歳のときの卵子を保存し、12年の時を超えてようやくこの子に会えたかと思うと、喜びもひとしお。「あの細胞が、こんな命を与えてくれたなんて」と、もう息子がかわいくてかわいくて仕方ありません。孫を抱けることを夢見てきた両親も、そのかわいさにメロメロです。病気にならなかったら…、桑山先生の卵子凍結保存の開発が少しでも遅れていたら…、この技術を教えてくれる人がいなかったら…、旦那さんに会えていなかったら…、この子には会えなかった。こんな幸せを味わうことはできなかった。いろいろな出会いや偶然が、この奇跡を起こしたと思っています。病気になったからこそ出会えた方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。
卵子を保存する、しないという選択は、自分で決めるもの。「将来、自分がどう生きるか、何が自分にとっての幸せか」を考えたときに、誰もが子どもを持てるチャンスがあるということを、なぎささんは多くの人に知ってほしいと考えています。もし、主治医がこの技術を知らなかったら、なぎささんは永遠に息子を抱ける日が来なかったかもしれません。いま技術も進歩して、国内でも卵子の凍結保存の認可がおり、自分で生きていく方法を決められる時代です。それを、ガン患者の方やすべての女性に、伝えていってほしいのです。誰しも知る権利があるのです。諦めた後にこの技術を知るなんて、悲しすぎる現実。日本中の苦しむ女性たちが、桑山先生のこの卵子凍結保存技術で救われることを願っています。いま、病気で闘っている人に、大病をしても将来赤ちゃんを抱くことができる可能性もあることを、伝える使命があると、なぎささんは強く感じているのです。
目指していた希望のレールにようやく戻って、新しいスタート地点に3人で立つことができたなぎささん。毎日毎日この幸せをかみしめ、感謝しながら、辛いことがあってもこれから夫婦で力を合わせて、愛情をたっぷり注いで息子を育てていきたいと新たな決意をしました。